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コラム

ひなた代表の毛利美絵からの訪問看護を担う次の世代へ向けたメッセージ

2025.9.11 エピソード

私が訪問看護師になったワケ【後編】

思いを汲み取り寄り添う。利用者ファーストの看護

病院や医師が病気と向き合うのが基本であるなら、訪問看護師は、利用者に寄り添うのが基本だと私は考えます。人と人が触れ合い、交わるからこそ生まれる信頼や共感を大切に、私たちは日々の訪問看護を行っています。

まだ過渡期だった訪問看護の世界に飛び込む

前回もお話したように、私が訪問看護に目覚めたのは、母がきっかけでした。今から30年近く前、1994年のことです。 当時はまだ、訪問看護という言葉もあまり認識されていない時代。ちょうどこの年、すべての在宅療養者を対象に訪問看護が提供できるように健康保険法が改正され、ようやく制度が整いつつあった、いわば過渡期でした。 そんな訪問看護の世界に、私は迷わず飛び込みました。 母を自宅で看取りたかった。けれど、できなかった。その後悔が私を動かす大きな要因でしたが、病院での看護にどこか限界を感じていたこともまた、私の背中を後押ししました。 福井の仁愛訪問看護センターに所属し、訪問看護師となった私は、仕事を始めて3日で、この仕事が天職だと悟ります。その瞬間から、この仕事が好きだ、楽しくてしょうがないと思い、精力的に仕事に取り組む傍ら、2000年の介護保険制度の開始に伴い誕生する介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得するための勉強にも取り組み、1998年に資格を取得ました。主婦で、母で、看護師で、と3足のわらじを履きながら、もう一つ、新しいわらじをこさえている。我ながら、欲張りだなと思います。

介護支援専門員の資格者第1号に

福井で介護支援専門員の資格取得第1号となって、私の訪問看護ライフはますます充実していきました。当時はまだ、訪問看護に関する国のルール整備が追いついていないこともあり、かなり自由に利用者さんと接することができました。それは、利用者さんの「最期にやりたいこと」を叶えやすい環境でもありました。 たとえば、桜を見に行きたいとか、孫の結婚式に出席したいとか。移動を伴うような願いも、行きたい場所までお供することで叶えることができたのです。そういったエピソードは、本当にたくさんあって、それこそ、お世話をさせていただいた利用者さんの数だけあります。そういったお話も、今後、このコラムで紹介させていただけたら、と思っています。

自ら訪問看護ステーションを立ち上げるまで

そんな中で、もう一つ、私の役割が増えることになりました。それが、包括支援センターです。 包括支援センターは、地域に住むすべての高齢者の方々の生活をサポートするための相談と支援の窓口です。必要な制度やサービスを紹介したり、利用するための支援をしたり。要介護認定の申請を代行することもありました。その他にも、虐待への対応から認知症患者に対する金銭管理のサポートまで、さまざまな問題やトラブル、悩み、不安に対応する、まさに「包括的」なものでした。 サポート内容が多岐にわたることに加え、職員の数がまったく足りていなくて、私一人で200件もの相談を担当していたことも。本当に身体がいくつあっても足りない状況です。けれど、不思議なことにどんなに忙しくて、身体がシンドイと感じても、仕事を投げ出したいと思ったことはありませんでした。 とは言え、訪問看護がやりたいと思い、どうすればいいか、と悩んだのは一瞬のこと。私はすぐに、訪問看護ステーションを立ち上げることを決めました。自分が何をしたいのかがわかっていたので、迷いはありません。むしろ、自分の理想を体現したステーションにしようと、私はワクワクしていました。

最期のときを、悔いなく迎えてほしい

そうして、2013年4月に、ひなた訪問看護ステーションを開設。そのときから今も、利用者さん本人はもちろん、家族の方が望んでいることを叶えていくお手伝いを続けています。それが、私たちひなたの目指す看護のカタチです。 かつては、病気になると入院をし、最期のときを迎えるまで病院で過ごすことが普通でした。けれど今は病院側の状況も代わり、短い入院期間で自宅に帰されることが多くなりました。きっと、訪問看護の必要性は、今後ますます増えていくと思います。また、こうした背景とは別に、「最期のときは自宅で迎えたい」と望む人が多いのもまた事実です。 もし、母の看護をしていたあの頃に、ひなた訪問看護ステーションがあったなら…と考えてしまうことがあります。それは、私たちが日々接している利用者の皆さんが笑顔で過ごしている姿を見ているからなのでしょう。だからこそ私は、母にできなかったことをできうる限り、利用者さんに提供していきたい、といつも思うのです。